密やかな結晶

医師を目指して勉強しています。常に一生懸命でいること。

枯れた泉

最近、早く死にたい、と思ってしまいます。しかし、本当に死にたいのか、と聞かれると返事に苦渋してしまいます。死んだら困る人がいるのも分かっています。ただ、いつだってこの人生を投げ出してもいいと思っています。消えてしまいたい、居なくなりたい、この漠然とした空虚さから逃れたい、と思っています。それらの気持ちは、死にたいという言葉がしっくり来るのです。

消えてしまいたいけど、現実的に消えることはできないから。居なくなりたいけど、ここから居なくなることもできないから。逃れたくても、逃れられないから。じゃあ死のうか。死ねたらなぁ。死にたいなぁ、と思っています。

小学6年生の頃から「私は死んだ方がいい人間なんだ」と思いながら生きてきました。ちゃんと考えたら死ぬべき人間なのに、思考を止めて、考え逃れをして、生きてきました。何かミスをする度「やっぱり死ぬべきだなぁ」と思っていました。「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と唱えていたおまじないが、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」になり、「死にたい、死にたい、死にたい」になりました。

私が生きるには、東京という地と、友人とお金が必要です。美味しい食べ物と私を受け入れてくれる数少ない人達がいれば私は生きることができます。前の私は、死んでいるも同然でした。辛い環境を耐えるために、感情を殺して生きていました。表情を無くし、感情を摩耗させ、隣の芝を見ないふりをし、死んでいるのと同じような無為な生活をしていました。生きるためのエネルギーが枯渇していました。

今の私も少し、世界に絶望しかけているようです。社会は冷たくて悲しいもの。人は怖いもの。世界は灰色で、私は必死に身体を動かして光を求めます。一瞬の光はすぐに消え去ってしまいます。私の世界をカラフルにしてくれていた人は、いつも、去って行ってしまうのです。

彼女もそうでした。しかし彼女を責めることはお門違いというものです。もしかしたら私こそが悪かったのかもしれません。私はまた間違ったことをしたのかもしれません。よしんばそうでなくたって、彼女がどう生きるかは私が預かり決めることではありません。とはいえ、彼女と縁を切ってから私はとみに死にたくて死にたくて堪らないのです。

誰かと気持ちを共有できることがどれだけ嬉しいか。何となく寂しい時、人と話せるのがどれだけ気分を上げてくれるか。色々な話題を深めることができるのがどれだけ貴重か。でも私はそれを失ってしまいました。

頑張ることに疲れてしまいました。普通を取り繕って平気な顔をして精神を研ぎ澄まし力を入れて生きていくことに疲れてしまいました。どうせ報われないのです。私の行為は無意味だったのです。だから諦めろと言っているのに私はまだ諦めることができないのです。

空虚さを感じる度、彼女がいてくれたら、という考えが頭をよぎります。でももう無理なんだよ、彼女は私の好きだった彼女ではないんだよ、もう許せないんだよ、だから忘れてしまおう、と私は言います。1人で生きよう、と思います。でも、もう疲れてしまいました。

もっと頑張らなくては、勉強しなくては、本を読まなくては、焦燥と劣等感に駆られ日々を過ごしています。明日こそは頑張らなくては。

自分が許せません。彼女を許せません。両親を許せません。社会を許せません。

死んだら許してもらえる気がします。

どうか、自分で自分を許せる日が来ますように。