密やかな結晶

医師を目指して勉強しています。常に一生懸命でいること。

夢と、隣人の渇望

いつか、いつか、私の望む未来が手に入るとしたら、私は穏やかで暖かい家庭の中に居たいと思います。笑顔で溢れて、夫は優しくて、子供は幸せにはしゃぎ回るような、たまに友達と会って愚痴ったり惚気たり、両親を訪ねたり、そんな家庭を夢見ています。

私にそのような幸せは無縁のように感じます。どこにいても、誰といても、そこにいてはいけないような気がします。私は間借りした小さなスペースに、すぐに席を立てるようにちょこんと座っています。私はここにいていいかなときょろきょろします。ここにいさせてくれて嬉しいなと周りの様子を伺います。

どうしてそう感じるようになったのかははっきりとは分かりません。考えようによっては、私は小さい頃から仲良しの友達というものがいませんでしたし、家庭では諍いが絶えませんでしたし、「安心して存在できる場所」というものが無かったのだろうと思います。

存在を許してほしい、とよく思います。

守ってほしい、と思います。

何から許されたいのかよく分かりません。強いて言えば私を抑圧してきた社会から許されたいのだと思います。人は怖いものです。集団は私の敵です。人の中に当たり前のように私がいることが、私にはうまくイメージができません。いつも私はお客様でありコンパニオンです。何かしらの役割を果たしていないと存在してはいけないのです。更にその役割は完璧にこなされないとそれと認められないのです。私が許されるハードルはなかなかに厳しいものなのです。

人からの賞賛の言葉に飢えています。私は自分のしたことを良いことだと受け止めることが難しいのです。他人に言ってもらえて初めて私は役に立ったのだとほっとします。価値がなければ私は存在してはいけません。私にとっての価値ではなく、他人にとっての価値が大事なのです。他人からの評価は私の糧であり、毒でもあります。期待と恐怖は表裏一体です。私を安心させてくれる人をいつも求めています。私をただ肯定し、絶対的な安心を与えてくれる人を求めています。往々の場合、友人より彼氏の方がそれを求めやすいのです。惚れた弱みが、盲目が、私を批判から守ってくれます。私はその時々の彼氏を頼りに生きてきました。

しかし、盲目的な愛情とは怖いものです。嫌なことに目を向けないことは悪いことです。私を理想化させてはいけません。何もかも受け入れさせてはいけません。一方的な全ての許容は支配へ繋がります。私は自分を操作することで相手を操作し、自分に都合の良い偶像を作り上げていたのかもしれません。相手は相手で、私を全て許してくれる何かと勘違いしたのかもしれません。しかし、抱きしめられて愛していると囁かれても、私にはどこか空虚な部分が残っていました。どんなに注がれても普通の人では絶対に埋まらない部分がきっとあるのです。

私は私に心底ぴったりと嵌るパーツを求めていました。無意識のうちにざっと10年は。そんなもの無いと最近になって気付き始めました。私の考えを寂しさを私の人生を全て解ってくれる人なんていないのです。私も、誰かの人生を理解することなんてできないのです。

それでも私は自分以外の誰かの人生を解ってあげたいと思っています。私が解ってもらいたかったように。その努力は常にしています。私のために誰かの心の穴が少しでも埋まってくれたらそれで良いのです。

今は私は自分に課されたタスクをこなしながら生きることに精一杯です。社会で生きることはそれだけで私にとってハードワークです。誰か、誰か、私に寄り添ってはくれないかしら。少しだけでも私の味方になってはくれないかしら。私が安心できる場所を与えてくれないかしら。

私は願っています。